「ここに在る」
これは、私がよく使う表現です。
この言葉の中には、私の思想の根底を流れる潮流が息づいています。
今日はそれをお話したいと思います。
私は島に住んでいます。長崎から100キロ離れた離島です。
一時期、スローライフ、癒し、ロハスといった言葉がもてはやされ、
自然と一体になった生活をしようということが、盛んに取り上げられました。
私は島に住んでいながら、この一連の流行に違和感を感じていました。
人々がそれを求める理由として、退屈で終わりの無い日常生活からの脱却、
単なる憧憬だけで、そういった生活を求めているように私には思えたからです。
つまらない日常生活、毎日が同じで単純。
そうした生活から抜け出したい。
どこかに自分を救ってくれる、日常から抜け出せる楽園のような場所がある。
そこに行きたい。そこへ行けばこの倦怠的な虚無感から抜け出せる。
そんな考えを持った人たちが、こぞって「スローライフ」とやらを
追い求めていたのではないでしょうか。
それ以前にも、「本当の私」というものがどこかにいて、
それを探そうとした「自分探し」といものがもてはやされました。
ソフィーの世界という本に端を発し、哲学書などを読むことが流行しました。
これもまた、スローライフを求めた心理と同じものだと考えます。
私は島に住んでいます。
休みの日には釣りに行き、サイクリングで自然を楽しみといったことは、
そうした人々から見れば、羨ましがられるスローライフかもしれません。
しかし、島にも都会と同じように生活があります。
喜び、楽しさ、悩み、苦しみ、それは必ずあるのです。
都会と田舎では、その形が違うかもしれませんが、本質は同じです。
どこに住んでいようが、どの時代だろうが、
人の営みになんら変わることはありません。
自分で見つけ出そうとしなければ、何も手に入らないのです。
私は、今まで都会での生活も田舎での生活も両方体験しました。
1番の都会で仙台市に住んでいましたし、1番田舎では出生地でもある今の島です。
他にも大学は高知、その後は秋田、下関など転勤を繰り返したこともあります。
昨年度までは、何度も東京に通っていましたが、ここでも住めるなと感じました。
「ここに在るということ」
それは感動であり、喜びであり、嬉しいこと、悲しいこと、苦しいこと、悩み
様々なものが、望めばいつでもそこに在ります。
それに私は気づきました。
元をたどれば、幼いときの海での体験に源流を求めることができます。
何度か書きましたが、海で1人で泳いでいて寂しさを感じたとき、
ふと、周りを見渡せば、青い海も、青い空も、輝く太陽も、そこに在ったのです。
いつもそこに在るということに気づいた最初の体験です。
それともう1つ。
大学時代、初めての海外旅行でもあるフランス留学が私の大きな経験となりました。
シャンソンに憧れ、フランス、特にパリというものに憧れ、
自分の憧れの地に行くことで、何かが得られるんじゃないか、そう考えていました。
スローライフを求める人々の心理と同じです。
パリの町並みに感動し、憧れの海外で有頂天になっていました。
そしてカンヌでの学校生活が始まり、いろんな国の人と話す機会がありました。
とある美術館では、学芸員の方と日本の歴史の話もしました。
そこで私は気づきました。
私は日本を何も知らない。日本だけでない、自分の住んでいる場所のことも、
風習も、言葉も、高知のことも、島のことも、そこに住んでいる人のことも、
語るべき何物も私は知らないんだと気づいたのです。
ショックでした。
世界は広いというよりも、それに気づいてこなかった自分自身の小ささを感じました。
何もフランスでなくても、日本でも、どこでも、島でも、そこに在るのです。
感動が、喜びが、楽しさが、苦しさが、悩みが。
それからです。日常というものが楽しいものだと感じ始めたのは。
ニヒリスティックに捉えていた、退屈で終わりが無く
毎日が同じであるという観念から脱却できたのです。
毎日通う道でも、必ず変化があります。
花が咲き、風が吹き、雲があり、天気があり。
そこには、何1つ同じものはありません。
通いなれたその道で、新しい発見をすることも、私にとっては大冒険なのです。
それは都会だろうが、島だろうが何ら変わることはありません。
この「ここに在る」という考えは、
レイチェル・カーソンが「センス・オブ・ワンダー」と呼んだ考えに似ています。
一般の西欧キリスト教的世界観には馴染めない部分もありますが、
彼女のいう「センス・オブ・ワンダー」は、私には十分に理解できるものです。
子供の頃には多くあった選択肢が、大人になるにつれて増えているはずなのに、
多くの人々は、この選択肢を自ら狭めているような気がしてなりません。
もしくは持っているはずなのに気づいていない、気づこうともしていない。
私にはそんな気がするのです。
与えられることに慣れてしまうと、それに気づくことはできません。
世界は常に新鮮な驚きに満ちているのです。
よくこんな話を見聞きすると、少年みたいだねとか。
いいよね。気づけるから。できる人だから。と言う人がいます。
私は違うと思っています。
気づこうとしたからから気づいた。
できるからやれたんじゃない。やったからできたんです。
ニヒリスティックな考えに捕らえられ、身動きができなくなっている人は、
実は自分もそうなんだ。気づけるんだ。できるんだと気づいていません。
そして何もしないまま、自分は違うんだと自分1人だけ高みに置きたがります。
彼らは「しょせん」という言葉をよく使います。
私はそれを聞く度に、お前は何を知ってるんだと言いたくなるのです。
orange pekoe は、「 Happy Valley 」の中でこう歌いました。
みつけて Happy Valley Sunny Happy Valley
愛しい日々は 側にあるの
みつけて Happy Valley Sunny Happy Valley
変わらずあるの 時をこえて
誰にもあるの 世界をこえて
必ずあるの Happy Valley
私がみつけた「 Happy Valley 」が「ここに在る」ということなのです。
最後に1つ。
メリーポピンズから、この歌を。
「 Just a spoonful of sugar helps the medicine go down 」
砂糖1つで苦い薬も楽に飲める。
ジュリーアンドリュースかわいいーーーーーーー
歌うめぇええええ
